結局

民博の鈴木昭男には、寝ずに行きました。フラフラが二乗で眠かったです。国立国際美術館がなくなった後の万博公園に初めて行ったのだけど、相変わらず、太陽の塔はあるし、一人で行くには凄くむなしい場所でした。ちょうど梅が咲いていて、家族連れやカップルがたくさんいて、ガレージ・セールをやっていたのだけど、入場料を取るガレージ・セールだったので行きませんでした。入場料を払ってまで行きたいガレージ・セールなんかねえだろう、と思いました。梅はきれいでした。民博の常設展を見たのは初めてだと思うけど、福岡アジア美術館の展示とか思い出しました。やたらカラフルなものが多かったです。ブリキ・シート(空き缶を潰してシートにしたもの。それでカバンとか作ってた。)はかっこよかったです。楽器の展示はあんなもんで良いのか、と思ったけど、朝鮮半島の楽器は初めて見たので、面白かったです。
「ブリコラージュ・アート・ナウ」ってのは別館でやってたみたいで、「ブリコラージュ(邦訳は「器用仕事」かな?適当な邦訳はないはず。)」というにはキレイすぎると思うし、「ブリコラージュ・アート」としては他に幾らでも切り口があると思うけど、観念や述語としての「ブリコラージュ」の概略を提示する展覧会としては、良かった気がします。別館に入ったら、鈴木昭男がもう笛を吹いてました。基本的な印象は、去年見た「もがり」ってビデオと同じで、でも、「創作楽器」は、たぶん録音では記録出来ないくらいのかなり豊かな倍音が出るらしく、面白かったです。これは見ないと分からないので。ビニール袋をカズーのように使うのも、面白かったです。
この人は「創作楽器」とか「日向ぼっこプロジェクト」で有名だけど、基本的な図式としては、1:あらゆる楽器(音を組織化して構成可能なものとするツール)は創作楽器でしかない し、2:あらゆる事物・行為は(たいてい意識されていないけど)音を発する(媒体となる) ので、3:わざわざ「創作楽器」について語るのは、それが「日常音(のようなもの)」(を聞いて発見すること)の喜びをもたらす媒体として機能するから、なのだけど、でも、そういう「発見された音響」を提示するためには、ある道具から発生させられる音響のヴァリエーションを(時間的経過に従って)提示するしかないので、なので「ライブ(コンサート)」で「音楽(のようなもの)」を提示するしかないのだけど、鈴木昭男の「演奏」が「上手く」なってしまっている気はしました。
でも、あのパフォーマンスは、鈴木昭男の「パーソナリティ」でかなり救われていると思います。優しそうなおじさんで、「ナイーブ」で「子供らしく」見えるので、「可愛らしい」とかいう感想が出てくると思います。なので、基本的には、面白いパフォーマンスでした。あれで「癒される」人もいるんだと思います。あの石笛は「天ノ岩笛」とかいうらしく、鈴木昭男義経の子孫らしいです。何でもそうだけど、鈴木昭男もステージに立つ側の人間なので、米朝のようにシャーマンかタイコ持ちになれたから「サウンド・アーチスト」としてメジャーでいられたんだと思うけど、僕は、鈴木昭男の「音楽」や「音」や「演奏」に興味があるのじゃなくて、鈴木昭男のそういうものたちへのスタンスに興味があるので、そういう「物語」は、娯楽として成立させるために必要だろうとは思うけど、あまり興味はありませんでした。
基本的に、未だに形容する言葉がない程度の音の差異を識別させようとするので、聴衆が静まり返る必要があり、聴衆は「神秘的で素敵」とかそういう感想しか出せないのは、こういう「サウンド・アート」のある種のアイロニーだと思います。これは基本的には聞き手の問題だと思うけど、これを問題としてとりあげたのはケージの「サーカス」くらいじゃないかと思います。